「よろしかったでしょうか?」

以前から気になる接客言葉で、腑に落ちないまままあそんなもんだという事で流していましたが、たまたま身近で聞こえたので調べてみました。

特にお店などでお客様に何かを確認するときに、「○○でよろしかったでしょうか?」という聞き方をされるのですが、何となく違和感を感じる人が多いようですね。確かに昔はそういう言い回しを聞いたことがなかった気がします。私も20年ほど前にバイトで接客業をしていたときには、そういう言い回しをしたことはないと記憶していますし、周りのメンバーもそういう風には言ってなかったと思われます。

「ら」ぬき言葉、などいわゆる日本語の乱れ/変化なのかなというやんわりとした受け止め方をしていましたが、そういった乱れや変化というのはなんらかそうなった理由があるもので、突然変異的に古き良き日本語をぶっ壊した結果、というのは少ないんじゃないかと考えています。そして、変化していった経緯というのも一つではなく、色々な小さな要素が集まって一般化されて言ったはずなので、「これ」という真理を探り当てるのもなかなか居心地の悪い物なんじゃないかとも考えています。

なので、自分なりに腑に落ちる見立てを見つけて、「さもありなん」という風に受け止めておくのが、自分なりの理解と人に何かを話すときのネタとしていいんじゃないかという基本原理に基づいていろんな意見を眺めてみましたが、いいのがありました。

「よろしかったですか」の歴史と心理的背景を探ってみる[絵文録ことのは]2004/12/05

北海道方面の方言から……という所から始まって、色々な考察を集めて整理されています。
方言から来た説については、なるほどと思わせられるところはありますし、実際そういう系譜もあるんでしょうけど、なんかこう「!!」という腑に落ちた勘が得られません。

しかし、

つまり店側によって、スタンダードがすでに選択済みなのである。そういう意味での「よろしかったですか?」という過去形なのだ。そして「はい」「はい」と答えていけば、とりあえず無難な形のインストール、いやメニューが完成するのである。

これはシビれました。

接客が「店頭でのコミュニケーション」から「価値交換のプロトコル」のように、スピーディである意味システマチックになっていく過程において、ややこしい応答はデフォルトで進むようにシンプルなインターフェースに改修されてきた結果、ととらえると、こういう言い回しは「さもありなん」と思わせてくれる所があります。

ただ、続いて「先取りして決められてしまっている不快感」で論じられているとおり、あまりに定型的にやりとりが進むことにより、「なんで勝手に決めるんだ」的な不自由さ加減があることは否めません。しかし、こういったプロトコルは、あまり難しく考えなくて良いケース……というより、難しく考えないで決まったとおりにやりとり(する|しろ)、という状況で醸成されてきたんじゃないかと考えると、「さもありなん」という感じがします。

さらに、この言葉を発する側のからくりを考えても、お客様とのやりとりのための包括的な仕組みが、システムとして(動きやすく|作りやすく)なるように組み立てられているために、そこに組み込まれる人間は「よろしかったですか?」と発せざるを得ない状況になるためではないか?と考えてみるのも面白いんじゃないかと思います。

めでたしめでたし。